コロナ禍でのフェスティヴァル開催という、きわめて特殊な状況の下、例年とは全く趣を異にする光景が、始まる前から様々な場所で見え隠れしていた。越後湯沢駅に向かう新幹線から会場へのシャトル・バスでも同様で、いつもなら、嬉々とした表情を浮かべて仲間とはしゃいでいるはずなのに、誰もが言葉少なに見える。彼らが互いに適度な距離を開けて整然と列に並び、苗場を目指しているのだ。今回のフジロックを開催するに当たって、参加するお客さんから、全スタッフ、関係者に伝えられていたのが感染防止ガイドライン。それを彼らが徹底して守ろうとしているのが見て取れる。
フジロッカーにとってはおなじみの、オアシス・エリアのど真ん中に姿を見せるはずのやぐらは見当たらず、それを囲んで、地元生まれの「苗場音頭」を大音響でながしながら、みんなが輪を描いて踊る光景もなかった。それが今年のフジロック開催前夜。過去10年以上にわたって続けられてきたというのに、レッド・マーキーで、「おかえり!」と声をかけて、「ただいま」と応えるみんなの記念撮影をすることも、もちろん、なかった。本来ならば、フジロックを愛する人達が待ちに待った時間の到来に、彼らの興奮が一気に爆発するのが前夜祭の開かれる木曜日の夜。しかも、前年の開催が延期されての2年ぶりだというのに、きわめて静かな幕開けとなっていた。
公式に「前夜祭はない」と発表されてはいたものの、唯一それを感じさせてくれたのは、直前までやるのかやらないのか全く知らされなかった花火ぐらいかもしれない。例年なら、ここで大歓声がわき起こり、否応なしに「祭り」の始まりを感じさせてくれるのだが、そんな反応は一切なかった。最初の一発が打ち上げられたとき、わずかに驚きの声が聞こえ、涙を流す人がいたという話も耳に入っている。が、誰もが夜空を飾る花火をなにやら厳かに見上げていたように思う。拍手はあったかもしれないが、シ〜ンと静まりかえった会場で、花火の音と光だけが響くという、どこかで「特殊なフジロック」を象徴するかのような光景が目の前に広がっていた。おそらく、誰もがここまでたどり着くのが簡単ではなかったことを察していたのではないだろうか。
Photo by 安江正実
当初、ライブハウスなどからクラスターが発生したことも影響したんだろう、感染拡大を誘発する場所として、ライヴ・エンタテインメントの場所がやり玉に挙げられ、そういったものが知らない間に「不要不急」を象徴するものであるかのように語られ始めていた。数多くのライブハウスが閉店を余儀なくされ、ミュージシャンや演劇人が作品の発表の場を奪われたのみならず、照明や音響の技術者が職を失っていた。さらには大規模なコンサートからフェスティヴァルが次々と延期やキャンセルの憂き目にあう。もちろん、感染拡大は阻止しなければいけない。が、同時に、音楽のみならず文化とは生きることに必要不可欠な要素であり、それを否定することはできない。その集大成としてフェスティヴァルという文化が存在する。とりわけ、それが日本で生まれ、成長していくきっかけとなったフジロックを根絶やしてはいけないという思いが主催者、関係者、そして、フジロッカーにはあったということだろう。
それだけではなかった。昨年、フジロックが延期を発表した頃、町内から「なんとか開催できないか」という打診があったという噂を耳にしている。その理由はフジロックで生まれる経済効果であり、それが断たれることが地元に計り知れない影響を与えることになる。それが二年も続けば壊滅的な打撃を受ける可能性も否定できない。だからこそ、地元と主催者が開催に向けた方法を模索し始めるのだ。その結果として、可能な限り徹底的な感染予防策を築き上げ、観客には不自由きわまりないがんじがらめの感染予防ガイドラインを提示することになる。しかも、本来のキャパシティのほぼ25%程度にまで規模を縮小。結果として1日の最大動員数は1.4万人弱と、一般的なスポーツ競技で日本武道館をほぼ満杯にした程度にとどまることになる。
これで採算が取れるんだろうか? しかも、感染問題に絡んで参加に不安を感じている人達や体調がすぐれない人達へのチケット払い戻しにも対応している。加えて、チケット購入者にコンタクトをして、希望者には抗原検査キットを発送し、大多数の人たちがそれに応えていた。が、それでもまだ不安だと、目指したのは100%。必要とされる膨大な数の抗原検査キットを集めるのに東奔西走したという話が伝わっている。さらに、会場内の救護テントに加え、バックヤードには数多くの医療関係者や民間救急搬送車3台を待機。また、会場入りする前に全スタッフがPCR検査を受け、陰性であることを証明してからでないと、苗場入りできない取り決めをしていた。加えて、長期滞在するスタッフは定期的に抗原検査を繰り返す。さらに、すでに会場入りしていても、自宅の家族で濃厚接触者が報告されると速効で会場を追われ、陰性であることを証明することなく現場復帰はできなくなっていた。ちなみに、観客のみならずスタッフも全員が毎日検温チェックを受けないと、会場に入ることもできないことになっている。どこかの新聞が「厳戒態勢」という言葉を使っていたのだが、まさしくその通りだろう。
Photo by 粂井 健太
下手をすると、今年は最もフジロックらしくないフェスティヴァルになるかもしれないという危惧があった。どこかで自由と自主性が魅力となっていたフジロックだというのに、感染対策に絡んで「がんじがらめ」のルールを守らなければいけない。しかも、コロナ禍での開催ということもあり、海外からのアーティストは皆無。会場を演出するUKチームの来日もできなかった。なにやら、フェスティヴァルと言うよりも、緑に囲まれた野外コンサートでしかないかもしれない。さらには、場内でのアルコール販売が禁止され、中心部から離れた場所にごくわずかに用意された喫煙所を除いて全面禁煙となっていた。1997年にフジロックが始まった頃から、毎回出店していた、オアシス・エリアの顔のような存在となっていたバーやお店の数々が出店をキャンセル。すでに「ここに来れば顔を合わせることができる」友人や仲間たちが参加を断念するにいたるのだ。
誰もが苦渋の決断と選択を迫られていた。特に大都市を中心に新型コロナウイルス感染者が急増し始めると、「なんとか開催してほしい」という声と同じように、「中止すべき」という声も多くなっていった。出演を予定していたアーティストやパフォーマーに対しても、様々な声が寄せられ、参加しようとしていた個人も揺れ動いていた。その結果がなにであれ、ひとりひとりが真剣にフジロックに向き合い、判断したことに敬意を表したい。来てくれたみなさんにも、今年は来るのをやめたみなさんにも、ありがとう。中止すべきだと主張した人にも、開催すべきだと声を上げた人達にも、出演してくれたアーティストにも、出演辞退をした人達にも、ありがとう。そういった反響に感じるのは、多くの人たちにとってフジロックが大きな存在になっていること。だからこそ、真剣に向き合って、彼らが導き出した判断に最大限の敬意を表したいと思う。
会場では感染予防ガイダンスを守ろうとするオーディエンスに圧倒されることになる。少なくとも、喫煙所やフード・テントを除いて、マスクをしていない人にはお目にかからなかった。しかも、ここで食事をしていて気付くのだ。ほとんど会話が耳に入ることはなかった。「黙食をお願いします」と書かれている注意書きを守ろうとしているのが、痛いようにわかるのだ。久々に仲間と会って握手をしたり、抱き合いたい気持ちがあっても、それを躊躇して肘や拳で挨拶。マスク越しに語り合う人はいても、大声で話す人にはお目にかからなかった。また、水分補給などでマスクを外すときも、周辺に人がいないことを確認してそうしているのが見て取れた。
ふつうならグリーン・ステージ外にMCを置くことはなかったのだが、今回は全ステージにMCを配し、演奏が始まる前に必ずオーディエンスに呼びかけていたことがある。
「必ず鼻を隠すようにマスクをして、声は出さないでください。安全な距離を保つために地面に記されたマークを確認してください。ステージ前では水分補給用のペット・ボトルなどを除いて、飲食物を持ち込まないでください」
MCにはそのマニュアルが渡され、毎回オーディエンスに訴えかけるように義務づけられていた。そうして飛沫や接触による感染を防ごうとしているのは言うまでもない。
そのおかげで目撃するのは、おそらく、フェスティヴァルやライヴでは前代未聞の光景だっだ。どれほどライヴが白熱しても、ほとんど歓声が聞こえることはなく、聞こえてくるのは拍手や手拍子のみ。それでも、その想いがステージ上に伝播するんだろう。加えて、悩み抜いてここに来る決断をしたアーティストの想いがそこに重なって、誰もがとてつもない熱を感じさせるパフォーマンスを見せていた。それは数えるほどのオーディエンスしか目に入らなかったちっぽけなステージであろうと、幾分の違いもなかった。今年は、会場入りを断念した数多くの人達がYouTubeでそれを目撃することになるのだが、演奏の素晴らしさを支えていたのはこの場で生まれた、えもいわれぬエネルギーのたまものではなかっただろうか。
Photo by MITCH IKEDA
Photo by Eriko Kondo
今年は、珍しく、チーフ・プロデューサーの日高大将が二度、グリーン・ステージに立っている。昔からフジロックを支えた二人の仲間が他界したことを告げたのが初日、そして、最後、日曜日のトリを務めた電気グルーヴの前。そこで彼がオーディエンスから感じたのは「なんとかしてフジロックを支えようとする人々の熱気だった」という。それが端的に表れていたのは彼らが感染防止ガイダンスを守り続けたことのみならず、まるで1999年の苗場で起きた奇跡の再現でもあった。すべてが幕を閉じた後、会場にはほとんどゴミが落ちていなかったという。ゴミ・ゼロ・ナビゲーションを訴えて、活動しているiPledge(アイプレッジ)が毎日、会場に落ちたゴミを拾い集めているのだが、各所に設置された収集箱を除いてほとんど仕事がなかったという嬉しい話も届いている。
フェスティヴァルが終わった8月24日に発表された主催者からの公式声明によると、その時点で「会期中の会場においてひとりの陽性者も確認されていないこと」が伝えられている。もちろん、それで完結してはいない。「今後も、時間経過と共に情報収集に努め、その結果をあらためて皆様へご報告し、未来のフェスティヴァルにおける感染防止対策の改善につなげてまいります。」と続いている。また、振り返るには早すぎるかもしれないが、完璧を目指したすべての関係者、地元のみなさん、そして、全国から会場にやって来ることができた方々や来られなかった方々にも、批判した方々にも、ここまでたどり着けたことを感謝したいと思う。
台風に襲われて惨憺たる状況を経験した1997年開催の第一回目から、その存続が問われる大きな試練となったのが苗場に場所を移して最初の1999年。「ロック・フェスティヴァルは危険だ」という偏見に対して、互いを思いやり、愛し合うことを行動で示すことによって、会場どころか、苗場の町からお世話になったホテルや民宿でゴミひとつ落ちていない「奇跡」を形にしていた。これが「地元と共にフェスティヴァルを育てる」という流れを生み出している。それ以降、同じように台風や記録的な豪雨といった幾多の試練を乗り越えて成長してきたとは言え、今回直面したのは前代未聞のウイルスによる危機だった。前述のように、まだまだ結論を導くには早すぎるのは十分承知の上で、関わるすべての人達が可能な限りの知恵と努力で「奇跡」を目指した今年は、フジロックの歴史を語る上で無視できない1年となったことは言うまでもないだろう。
どこかで様々な意見や考え方の違いが音楽界で分断を引き起こしているという声も耳に入る。が、フェスティヴァルを愛する人達が、多様性を認めるのは当然であり、互いを尊敬し、受け入れて、そこからよりよい選択肢へと自らを導いていくべきだと思う。その上で、今回の経験を糧に、来年を目指したいと思うのだ。このウイルスによる影響がいつまで続くのか、誰にも予測はできないかもしれない。いつか、そんな心配をすることもなく、苗場でみんなとまみえることがある日を願って、今年のエキスプレスの幕を閉じたいと思う。
なお、ガイダンスに則り、感染を防ぎながら取材をしなければいけないという難しい状況のなかで、動いてくれたスタッフに最大限の賛辞を贈りたい。マスクやフェイス・シールドの用意はもちろん、安全な距離を保ちながらの取材は簡単ではなかったはず。また、独自に用意周到な感染対策を生み出してラウンジを運営したスタッフにも頭が下がる。心の底から、ありがとう。
今年動いてくれたスタッフは、以下の通りです。
■日本語版(http://fujirockexpress.net/21/)
フォトグラファー:森リョータ、古川喜隆、平川啓子、北村勇祐、MITCH IKEDA、アリモトシンヤ、安江正実、粂井健太、白井絢香、HARA MASAMI、おみそ、suguta、シガタカノブ、佐藤哲郎
ライター:丸山亮平、阿部光平、石角友香、あたそ、梶原綾乃、阿部仁知、近藤英梨子、イケダノブユキ、三浦孝文、東いずみ
■英語版(http://fujirockexpress.net/21e/)
Laurier Tiernan, Jonathan Cooper, Nina Cataldo
フジロッカーズ・ラウンジ:飯森美歌、obacchi、藤原大和
ウェブサイト制作&更新:平沼寛生(プログラム開発)、坂上大介(デザイン)、迫勇一
スペシャルサンクス:三ツ石哲也、若林修平、守田 昌哉、Park Baker、そして、観客を守るために奔走してくれた全スタッフ、試練を乗り越えてフェスティヴァルの素晴らしさを伝えてくれた観客のみなさん。
プロデューサー:花房浩一
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fujirockers.orgとは1997年のフジロック公式サイトから独立した、フジロックを愛する人々のコミュニティ・サイト。主催者から公式サポートを得ているが、独自取材で国内外のフェスティヴァルからその文化に関わる情報を発信。開催期間中は独自の視点で会場から全方位取材で速報を届けるフジロック・エキスプレスを運営。
http://fujirockers.org/
フジロック初登場の秦基博は、サポートのミュージシャンと共に午後のグリーンステージで柔らかい空気を作った。
アコースティックギターを手にして、まずは「鱗 (うろこ)」から始まる。「夏の風が君をどこかへ遠くへと奪っていく」という言葉があるようにこの日にハマりそうな一曲目である。
雨が降りだすと、みんな一斉にレインウェアを取りだして着る。その手際のよさがフェス慣れした人たちなのだ。ちょうどよく「天気図を横切り前線は伸びる」と雨を歌った「言ノ葉」がこの状況を的確に捉えていた。
アコースティックなギターの響きを中心に柔らかい空気を作るのは、ジャック・ジョンソンを観たときと似たような感覚に近い。それでいて、ハードなギターソロがあったり、音響を大切にした曲があったり、4つ打ちの曲があったりと引き出しが多い。
おそらく初フジロックで名刺のようなライヴをするということなんだろう。その誠実で謙虚なイメージが伝わるものになった。
歌っている最中にマイクに止まるトンボに言及し、「トンボも聴きに来てます」といってから「泣き笑いのエピソード」を歌う。半年間、毎日この歌を聴いていた日々を思いだす。そういえば、千代のお父さんはこの後のグリーンステージに立つんだよな。「笑顔をあきらめたくない」という歌詞が刺さる。どんなときでもあきらめたくない。グリーンステージで聴いている人たちにじんわりと伝わっていく。
そして「ひまわりの約束」。多くの人が聴いたことある印象的なサビは苗場の山に響いて、聴いている人たちの心に沁み渡るものになった。「君のそばにいる」ことも叶わなくなるかもしれない明日に、素朴な気持ちだけでも持っていたいという切実さが共有されたのではないか。
最後にひとりステージに残り「朝が来る前に」。静かに、しかし前向く決意を示した歌で締めくくる。3日目午後のグリーンステージを優しく包んだのであった。
]]>例年なら、フジロック明けの越後湯沢駅は非常に賑わっていて、まだまだ祭りの興奮状態が残っているけど、今年はそれもなく静かだった。人が少ない駅や新幹線にホッとしている自分がいる。また、開催中は大きな事故もなく終わることができたフジロックにもホッとしている。もちろん、1週間後、2週間後どうなっているかが本当に無事だったといえるけど。
3日目のフジロックも、刺すような夏の日差しがあり、突然の豪雨があり、どんよりとした空があった。1ヶ月遅れての開催だったので、寒いのではないかとよくいわれていたけど、たまたまなのかフリースを取りだすような凍える気温ではなかった。天候としてはいつものフジロックといっていいのではないか。
あと、基本的に会場で食べたものはほとんどが旨かった。このような状況でも出店してくれた店の思いもあっただろうし、一方でお客さんが少ない分、どの店も長蛇の列も少なく(店や時間帯によってはあるけど)、注文に対して落ち着いて対応できた店が多かったからかもしれない。店にとっては気の毒ではあるけど、参加者が少なかったことで生じたことのひとつである。もちろん、お酒を販売しなかったので、勢いで食べずにじっくり味わえたとかもある。
3日目は、cero(ほとんど音だけ)、秦基博、羊文学(70%くらい)、MISIA(90%くらい)、GEZAN、FINALBY( )、平沢進(冒頭20分くらい)、電気グルーヴを観た。秦基博の温かい音楽に包まれ、GEZANの強烈なパワーに圧倒され、FINALBY( )の「フェスでステージを見せること」を根底から問い直したワケのわからなさにぶっ飛ばされ、電気グルーヴの復活は笑顔で迎えることができた。
MISIAの「君が代」について
グリーンステージに登場したMISIAは1曲目に歌ったのが「君が代」だった。以前、無観客の場で歌ったので今回は多くの人の前で歌いたかったとか、分断でなく統合の象徴として歌ったとかというような意図なのか、または彼女には特別な意図はなく、単に自分の声をよく響かせる歌として歌ったとかは外からはわからない。書いている時点では彼女からの言葉がないので、どんな意図なのか決めつけることもできない。
ただ、歌ったことで感動する人や反発する人がでてきて賛否が分かれた。かつて忌野清志郎がフジロックで「君が代」を歌ったときも賛否が分かれたし、もっというなら通常のライヴだって、人気曲をやらなかったとか、期待されているようなアレンジでなかったとか、賛否が分かれることがある。賛否両論になること自体は悪いことでないのがひとつ。
アーティストは必ずしも答えをだすだけでなく、疑問を投げかける側になる。かつて銀杏BOYZの峯田がフェスで物議を醸したときに、「ロックな表現だ」と称賛した人がいれば、嫌悪して警察に通報した人もいる。アーティストが投げかけたものに対して賛があり、否があってよいではないか。
しかも、たくさんのステージがあり、たくさんのアーティストがでるので、自分が体験したフジロックと他の人が体験したフジロックは違うのだ。MISIAが「君が代」を歌っているとき、ホワイトステージではTHA BLUE HERBのBOSSが「フェスに中止求めるなら補償の仕組みを作れ」と訴えていた。同じ時間にフジロックにいたとしても観ているもの、聴いているものはこんなに違うのだ。MISIAとBOSSは対極であるともいえるし、「音楽の現場を愛し、コロナウィルス対策についてなんとかしてほしい、という思いは同じですね」ときれいにまとめることもできる。
そして、たくさんのアーティストが出演し、1万人前後お客さんがいるフェスで、ひとりのアーティストの表現だけでフェス全体を表していることはないといいたい。MISIAがいれば、ウーマンラッシュアワーの村本がでるのがフジロックなのだ。何を表現するかは自由だし(だからFINALBY( )のように音楽を超えたようなワケのわからないすさまじいライヴができる)、その多様性がフジロックなのだ。今年に限らず今までの出演者でいえば、野田洋次郎や椎名林檎がでる一方で、自ら左翼を自認する太陽肛門スパパーンがでるのがフジロックなのだ。どちらも居場所がある。そんな場所が日本にどれだけあるのだろう? だから自分はこの場所を愛する。
]]>今年のフジロックの最後は、イエローシェフにあるこのステーキ丼で締め。電気グルーヴが終わって23時を少し過ぎてましたが、まだやってました。ボリュームもあり、味付けもよし。最後がこれでよかった!
★★★★★
]]>なんか今年、フェスごはんを食べる際にハーフ&ハーフとかあいがけとかWとか全部盛りとか、そういうのをよく食べた気がする。やはり、自分が求めているのはお得感なんだということ。これも2つの味が楽しめた。
★★★★︎
]]>PAの後ろからステージ背後へレーザーが照射されていて、レーザーもさまざまな模様を作ったりする。ステージ上に設置されているモニターには、加工された映像が映しだされていて、それがおそらくインターネット配信の映像と同じだと思われる。
なお、それらとは関係なく、向こうの山々が光っていたのだけど、それは雷光なのだろう。自然現象である。
19時10分にライヴは始まった。電子ノイズみたいな音が断続的に鳴り、塔やコーンがそれに合わせて光る。しばらくすると塔の上が開き、コーン(工事現場にあるような一般的な大きさ)を持ったEY∃が現れて、コーンを振り回す。コーンはLEDライトが仕込まれているのだろうか、青白く光り、またEY∃が振り回すことでノイズが発生するような作りになっているみたいだ。
コーンを持ったままEY∃はステージ前方にでてきてコーンを振り回す。勢い余ってコーンがステージから落ちたりもしたけど、戻されてコーンの振り回しが続く。EY∃の姿にカメラマンが密着し、ずっと撮影をしている。ステージは薄暗いのでよく分からないけど、EY∃の姿の映像を加工し、それをステージ上のスクリーンに映しだされる。
コーンを回転するものに取り付けて、コーンを回転させ、多少ビートみたいに規則的なものになる。EY∃は塔の上からでてきて叫ぶ。そして塔自体がテルミンぽくなっているようで手を当てたり、かざしたりしてテルミンのような音をだす。
もうひとつ同じくらいのコーンも回転する機械に取り付けて2つの回転しているコーンの間でEY∃が叫ぶ。
大きなコーンも横に倒して回転させ、EY∃は2つの小さい方のコーンを左右に持って5分くらい自らぐるぐると回る。踊れそうなビートにはなっていて、ノイズは放出され、レーザーは照射され、そのカオスの中で約50分のステージは終わった。EY∃はマイクなしで「ありがとうございます」と感謝を述べて去っていった。ステージ背後のスクリーンにはエンドロールみたいに関わった人たちのクレジットが映しだされていた。
]]>フジロックの定番、苗場食堂のとろろごはんと豚汁。豚汁は野菜の具もたくさんで野菜不足にはよかったです。
★★★★☆
]]>初めてのフジロック。ゴンちゃんと写真を撮るのがフジロックのお目当てというが、少々お疲れの様子。
]]>「コーンスープ、温まる〜」と書こうと思ったら、日差しがでてきて暑くなってきた。夜とかいいと思います。
★★★★☆
]]>素晴らしいライヴもたくさんあった。感動して涙も流した。旨い飯も食った。明日も楽しみなアーティストはいる。まだ自分の気持ちに整理をつけることができない。
この日観たのは、KEMURI、ムジカ・ピッコリーノ、AJICO、サニーデイ・サービス、The Birthday(後半)、ROVO、THE SPELLBOUND(後半)だった。
KEMURIのふみおの涙にもらい泣きし、ムジカ・ピッコリーノでは藤原さくらの可愛さに悶絶し、AJICOではUAの存在感に圧倒され、サニーデイ・サービスは前日のくるりを思わせるような異様なテンションに惹き込まれ、ROVOはいつものように最高だった。途中、激しい雨が降り一旦宿に戻ったりもして、観たいバンドを断念したけど、観たライヴはどれも素晴らしかった。
しかし、昨日から考えていることはDYGLのことである。過去の盛り上がる曲を封印し、新曲でのセットリストにした。他のアーティストがひとつの答えをだして(例えば、RADWIMPSの野田やROVOの勝井のように「今回は成功させて次回に繋げよう」とか)、それを上手く消化してメッセージにするのではなく、自分の迷いをそのまま言葉にした。悩んでる、迷ってるというアーティストはいるけど、ほとんどの場合、ステージに立つ頃にはすでに答えがでている。KEMURIのふみおは「前日のリハーサルで、メンバーにフジロックに出ることへの賛否を訊いたら半々だった……でも、"P.M.A"をやった後でみんなに訊いたら『やってよかった』って」。"P.M.A"の直後の MCなので、そんなメンバー全員に訊いて回ってたっけ? と思うけど、つまりはその MCの時点で答えがでているのである。もちろんどっちがよいとか悪いという話ではない。
KEMURIもサニーデイも古くからのファンが喜ぶようなセットリストにした。AJICOもTHE SPELLBOUNDもメンバーが過去に在籍していたバンドの曲をやってファンを喜ばせた。そこで際立つのがDYGLなのだ。もちろん、キャリアからすれば、今挙げたバンドよりも短いし、まだ駆け出しともいえる。その中でも定番曲があり、盛り上がることが半ば約束されている曲を封印したのは、まだ成長途上のバンド故の試行錯誤なのか、コロナ禍に対する最も誠実な回答なのか。その答えがでるのはまだ先なのかもしれない。先であって欲しい。
ROVOがガラガラだった問題
ROVOのフィールド・オブ・ヘヴン(以下ヘヴン)がガラガラだった。グリーンステージで大物洋楽アーティストがやっていても、かなり埋まるようにフジロックのROVOは鉄板なはずなのに、なぜ今回はガラガラだったのだろうか。ステージ前は容易に最前までいけるし、後ろの通路あたりには人がいなかった。椅子を置いてもよいゾーンもソーシャルディスタンスを確保できるくらい。実感ではグリーンでレディオヘッドがやっているときのヘヴンのレイ・ディヴィスのようだった。
もちろん、集客と音楽の質は必ずしもイコールではないからガラガラだったのが悪いということではないし、ROVOを観ない人が悪いという話でもない。自分だって被りがなければTHE ALEXXや King Gnuやナンバーガールを観ていたのだ。このガラガラは今年のフジロックのことを象徴していることだと思うので、いろいろと考えてしまうのだ。
その理由のひとつは、普段ROVOを観る人がフジロックに来なかったということがある。いわゆる「ヘヴン(奥地)の住人」みたいな人がいなかったと感じるのだ。グリーンやホワイトのアーティストに目もくれずに、居心地のよいヘヴンで酒を飲みマッタリと過ごす人があまりいなかった。今回は酒が飲めないというのも大きかったかもしれない。そして、やはり人気のKing Gnuや復活して話題のナンバーガールが強力過ぎて邦楽ロックファンにアピールできなかったということもあろう。あとはハード面になるけど、ROVOが始まった時点でヘヴンより先のステージは終わっていたし、オレンジカフェの飲食店も22時には終わっていた。つまり、ヘヴンが終点になってしまい往来がなくなってしまったのだ。そして、ヘヴンにはさくらぐみのピザなど名物フェスごはんがあったけど、今年はヘヴンに飲食店がなかったことも大きいのではないか。ヘヴンに飯を食べにくるということがなくなってしまった。いろんな要因が重なってしまったけど、ライヴはいつものように最高だった。やっぱり「ROVOにとってヘヴンはホーム」を実感させるものだった。もちろんまたヘヴンに帰ってきてほしい。
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