東北vs西東京、気心知れた意地の張り合い
東北は岩手の花巻からやって来た、エル・スカンク・ディ・ヤーディ。カホンのカツシは古着をメインとした倉庫で働いている。震災以来、日に日にメディアが信用できなくなって、物資を送ろうにもなにが求められているのかわからない…実際に津波を体験していない遠方の人間にとっては、どこから手をつければ良いのかわからなかった。
漠然と何かできないかと思っていた矢先に、踊ろうマチルダやスペースシャワーTVらの協力のもと、音楽で培ったネットワークをフルに使って、生の現地の声を届けてくれていたのが誰あろう、カツシだった。もちろん、相方であるギター&ヴォーカルのショウ441も、物資の運搬に走り回ったという。彼ら2人が「ネットがある今の世の中、岩手にいて出来ないことは東京でもできない」と、そんなことを言っていたことが思い出される。
「ブッキングされた」背景に震災云々が絡んでいたのかは知らない。そんなことはどうでも良い。現場の声がこちらに、生声で届くということが重要だった。裏では、ビッグなアーティストが演奏している。ちょうど、ビッグ・オーディオ・ダイナマイトの時間帯。ミック・ジョーンズ、ドン・レッツ…ザ・クラッシュを創り、広げていった男たちのステージが、遠くで微かに聴こえていた。
エルスカンクも、ザ・クラッシュが世界中にバラ蒔いた、『モノ言う種』を咲かせることができたアーティストだ。彼らも、ホワイト・ステージで演奏するBADを一目見たかったのではないかと思う。だけれどその裏側で、いつも通りに滅茶苦茶やっていた。
叩くように弾かれるショウのギターと、海のさざ波から硬いスネアに至るまで、様々な表情を見せるカツシのカホン。ショウのMCもターンテーブルの逆再生から、半世紀前のラジオ音声から流れ出るトランペットのような声色などなど、どこを切り取っても、悪ふざけが過ぎる。騒いで、突然落としてしみじみと聴かせ、再び笑い飛ばして、フジロックだろうがなんだろうが好き勝手に振る舞う姿勢が、底抜けな楽しさを演出する。
以前に話した時、しきりに言っていた「俺らは無茶振りキングだから」の言葉通りのやんちゃぶり。どこかで聴いた事のあるメロディが挟み込まれたりと、やりたい放題の様相を呈する。オーディエンスの期待を裏切り、裏切るばっかじゃナンだからと、あえて乗っかってみたり…予定調和がないアーティストは数いれど、「セットリスト」という筋書きのないアーティストなど、なかなかお目にかかれるものではない。
終盤、それまでやりたい放題やっていたショウ441がトーンダウンし、
「おばあちゃんに直接『愛してる』って言えないままだったことは後悔してる。いつ会えなくなるかわからないから、身近な人に会えたなら、その時に『愛してる』って言ってください」
…言葉の細々とした部分は違うかもしれないが、内容には間違いはない。これは、震災によっておばあちゃんが無くなったのではない。ただ、彼の祖母が住んでいたのは「陸前高田」という土地で、家は津波を受けてボロボロになったそうだ。地元の中でも、ショウ自身を育てた土地と祖母への「想い」が溢れ出たのだろう。そして、後悔の念が強くこみ上げてきたのだろう。こちらに、期を逃さないようにバトンを渡そうとして、それでも何らかのBGMの上でしか言えない不器用さも、ちらりと顔をのぞかせていた。
それでも、地元の、馴染んだ土地を失うということは堪える…そんな強い思いが縫い込まれた、こちらの背筋を正す言葉だった。その言葉とリンクするのは、”風凪ぐ場所で”と題された新曲。それは、たまらなく切なく響く、青白い炎を宿した珠玉のバラードだった。
そして、切なさを振りまいた照れ隠しをするかのように、いつもの「度が過ぎる」テンションへ。再びカツシのカホンが走りだせば、ショウはギターを下ろして、MCへと様変わり。
エルスカンクのライヴに参加するような登場を果たしたのは、光風&グリーン・マッシヴ。光風(クール・ワイズ・マン)がヴォーカルをとる、西東京より奥の香ばしいエリアから出てきた、反骨のレゲエを奏でるバンドだ。
しばしのセッションの後、エルスカンクは身を引き、グリーン・マッシヴに道を譲った。ここからは、体をゆるりとさせる裏打ちの時間だが、ただのレゲエバンドと侮る事なかれ。ドラムスは、05年の同じ場所にて、ステージ脇のスタッフすらをも即席のセキュリティにしてしまった犬式のドラム、柿沼和成(ほまれ)。ベースのマーはファンクのような図太いラインをなぞり、リードギターのNGKBはちょいちょいロカビリー風味をたらし込む。そして、キーボードがいくらか「モダン」な味付けをして、ジャンベが土臭さを塗りたくるといった、ほうぼうに突き抜けたバンドとなっていた。
こちらもやはり、モノを言う。自然へと立ち戻ろうとする思いがそうさせるのだろう。発展しすぎた都市を攻撃し、足下を見失った存在を「バビロン」になぞらえ、それを打ち倒そうと声を挙げる。バビロンとは、「あるがままの姿を見失った巨大な存在」といったところか。
途中、光風は、マイクを通さない「生声のヴォーカル」で歌いだした。きっと、「生声で歌えば、皆が真摯に耳を傾けてくれる」ということを知っているのだろう。その間にも、他のステージで炸裂している爆音が「微か」に聴こえる。だが、アヴァロンだけは、静かな海の上を滑るような感覚だった。光風のヴォーカルは、どの音よりも大きく、心に響いていた。
光風の足下を見やれば、走って急ぐでもなく、常にゆっくりと歩んでいるかのようだった。それはそのまま、彼の心情を表してはいまいか。
両バンドの形は違えども、共通の意識の元にタッグを組んでいる。その組み合わせは、苗場の夜の1ページとして、ささやかなる「のちの伝説」を刻んだのだった。
文:西野太生輝
写真:岡村直昭