ふらりとそこにあった非日常のひととき
人間といういきものについて、ときどきそのか弱さに情けなさをすら感じることがあるだろう。例えばいい年して涙もろくなるとかがそう、目にしたものと頭の中の思い出とが結びついたりしたら大変、いつの間にか視界も曇ってしまう有様である。
「コンニチーワーフジロック!」Gラブ&スペシャルソース、ソロ名義での来苗も合わせるとフジロック4度目となるだろうか。はじめてのグリーンステージはこれまでのレッドやヘブンに比べてずいぶんと広く、対して今回3人のメンバーで挑む彼らは、ずいぶんこじんまり…なんてことはなかった。ブルースハープが、ギターがひとたび鳴りさえすれば、3万人も収容できるでっかい緑の野原もあっという間に彼らのものとなった。
新作タイトル曲”Fixin’ To Die”みたいなカバーソングなんかもGラヴ節として小気味よく泥くさく響き、小雨や濡れた地面も忘れるダンスフロアに変えてくれる。同じく序盤でのカバー曲披露となるポール・サイモン”彼女と別れる50の方法”のあたりではたくさんのビーチボールまで現れてオーディエンスの頭上を跳ね、心地良さの醸造を手伝っていた。
うーわー、やっぱいいなあ……。しばらく聴いていると、おのずと抱いていた気持ちが口からはみ出る。いつものフジロックで聴く、何度目かのGラヴ。これは率直に馴染みのたぐいと呼べる光景だろう。50年代の音楽をラップなどで彼らしく現代風味に味付けるブルーズも、”Booty Call”で「Clean Version? Dirty Virsion?」と尋ねたり会場に喘ぎ声でレスポンスを求める彼らしいコミュニケーションも、それを響かせる苗場も、最近はカラフルなアウトドアウェアに身を包むようになったオーディエンスも。新鮮さと縁遠いこの景色が、いくつか彼の曲に身を任せている内に、とてもプレシャスなもののように感じられ、それで思わず感嘆が口をついた形となる。ああ、そうか。こんな当たり前のような景色を、私は非日常のヒトコマとして見ていたよな。
3月11日、震災以降の暮らしは私にとってまさに「非日常」であった。フジロックをはじめフェスティバルが本来そのような場と呼ばれるべきであるはずなのに、不本意ながらそうだったのだ。そんな折に、このGラヴの変わらない空気がいた。非日常と読んでいいのは、7月最終週末のような、彼のライヴのような空間のことだろう?そう言われているような、思い出したような感覚が目尻をくすぐり、ぼやけた視界でにやけてくる。ああ、ありがてえなあって。
その時間のラストはヘタウマラッパーのビズ・マーキーのバラード”Just a Friend”をカバー。リフレインするサビの部分はよくある恋バナ的なやり取りだが、それをオーディエンスにも合唱させるようし向け、適度な一体感を味わわせてくれる。「アリガト!」そう言って3人は去ったが、ステージから誰もいなくなったあとも「彼はただのトモダチなのよ~♪」というサビの部分の合唱が自然発生的に続いていた。口の中でそのメロディーを遊ばせて、このひとときをいつまでも味わうような時間。これなんだよな、こんなくだらない歌を、ただただ気持よさに任せて歌う、それが非日常、フェスなんだよ。
写真:熊沢泉 (Supported by Nikon)
文:RJ