yahyel
解像度の上がったディストピア感
金曜日のRED MARQUEEの深夜帯「PLANET GROOVE」のトップといえば、ここ最近、ダンス、エレクトロ、ベースミュージック系のバンドアクトという印象が強い。去年で言えばD.A.N.が見事なライブで一つのキャリアハイを印象付けたことも記憶に新しい。去年のROOKIE A GO-GO出演バンドの中でも長足の進化を見せたバンドとして、いわゆる飛び級的にメインゲートをくぐったのがyahyelであることに異論のあるオーディエンスは少ないだろう。
時間的にはGorillazと重なりながら、確実に演出や映像を冒頭から見たいクラウドがレッドに集まってくる。開演3分前、2本のスモークをフロアに向かって噴射。メンバーのシルエットが際立つフォギーな演出だ。そのあと、圧倒的に高精細になった背景のビジョンに反転したyahyelのロゴが映し出されると主に男子の大歓声が起こる。大井一彌(Dr)のキックのローが想像以上に出ていて、そこに池貝俊(Vo)のエフェクトでダブルに近い聴感のボーカルが重なる。さらに山田健人(VJ)がシンクロさせた映像はレントゲン写真を思わせる。しかしダイレクトにグロい訳ではなく、細胞の記憶に訴えるビジュアル・センスが非常に今日的であり、去年から今年だけでも宇多田ヒカルや盟友SuchmosのPVを手がけた理由も分かる。
初のフジロックの大舞台で顕在化したのは、彼らが匿名的なフィロソフィに拘りつつ、しかし日本人であり東京を起点に活動している意味を言葉ではなく、より明確にステージ上の「顔」や「容姿」を消し、しかしグルーヴにリンクするムーヴはハイスペックになった今日の舞台環境で恐ろしく意味を強化していた。地メロでもステージ上は暗転したまま、サビに向かう段階でようやくビジュアルが投影され、その明るさによってメンバーのミュージシャンとしてのアクションがシルエットという、動きをどこまでも削ぎ落とした形で見せるのだ。パッドを叩く篠田ミル(Sampling)やシンセを操る杉本亘のアクションは、演奏というアクションに自覚的。一見、クールに無感情にパフォームしているように見えながら彼らの内的なエモーションが輪郭で確認できるというカタルシス。
yahyel流のゴシック色が濃厚な“iron”、対照的にトロピカルなメロディやリズムが、架空の国感を想起させるメジャーキーの“Rude”。後者ではレッドの天井に新たに設置されたキネティックライトがゆっくり動きながら発光する演出も、美しいのに生き物のようで不気味でもあった。ファンの間ではキラーチューンとなっている“Once”ではイントロだけでさらに大きくなる歓声、曲が進行すると同時に収縮するようなシークエンスが体感に訴える。
ライブを見ながら、そう言えばまだ去年は映画青年が誰にも似ていないディストピア映画をジョージ・オーウェルの「1984」を模して作っていたような手触りもあったのに、今はもうこれから公開される20年代のディストピア映画を見ているような感覚に音と映像で陥ってしまった。大げさに言えば我々はどこから来て、どこへ行くのかーーそんな根源的な問いに、削ぎ落とされたモダンサウンドの中で晒されるのだ。
「フジロック、まだまだ長いよ」と、フジロッカーを煽りながら、一息つき「(今日のステージを)集大成的に思っていたので嬉しいです」と、池貝は手応えを感じながら言った。そしてライブ中、日本、東京という出自について(ここが様々な国からのオーディエンスがいる場所だからかもしれないが)声を上げていた彼。音楽や映像そのものに自信を深めて行く中で、最初にとった手段としての匿名性は、楽曲の深度とともに変化して来ている。ベースミュージックやダブステップ以降の現行の海外のサウンドとのリンクとか、そういう時期を超えてーー日本人の美意識が確実に反映されたパフォーマンスを今、yahyelは見せてくれたのだ。