今年に入って5枚目のアルバムとなる『ヘリゴランド』を発売したマッシブ・アタック。前回フジロックに登場した時もアルバム『100th Window』直後の2003年だっただけに、もしかして…と思ったファンもいたのではないだろうか。実に7年ぶりのオリジナルアルバムをたずさえた苗場でのライブは、前回と同様に異常にクオリティの高いサウンドとビジュアルにあわせて強いメッセージを宿したものであり、フジロッカーズの心に深く重い問いを投げかけていた。
アトモス・フォー・ピースの興奮が覚めやらぬグリーンステージ。風鈴のような鈴のような音色のSEが響くなか、青い照明に3Dことロバート・デル・ナジャの姿が浮かび上がり、「ユナイテッド・スネイクス」からライブはスタートした。白い閃光が走る中スモークがたかれ、最終日のヘッドライナーの登場を目撃した客席から、静かだがたしかな喜びを伴った歓声がわき起こった。マルティナ・トップレイ・バードを招いて「バベル」、「ライジングサン」と『ヘリゴランド』からのナンバーが披露され、おさえた展開ながら隙のない完璧なステージにグリーンステージの客席がさざ波のように揺れ始める。
レゲエの雄ホレス・アンディを招いての「ガールアイラブユー」に続いて、「サイケ」、「フューチャープルーフ」、そして名曲「ティアドロップ」。細身でキュートなマルティナが発するハスキーで芯のある独特の歌声が夜の苗場に染みていくにつれ、雨脚が強まる厳しい環境がおだやかな浮遊感に包まれていく。アルバムとは全アレンジが異なることも手伝って、何度も繰り返し聞いた楽曲がまるで別の作品のように感じられた。
ステージ中盤からは再びホレス・アンディを招いての「エンジェル」、「セーフフロムハーム」、「イナーシアクリープス」といったおなじみの楽曲が立て続けに演奏された。マッシブアタックといえばメッセージ性の強いビジュアルの展開がライブでの大きな魅力であるが、前回のフジロック同様日本語にローカライズされた彼らのステージは若者を中心としたフジロッカーズに衝撃を与えた様子である。
たとえば、アウンサン・スーチーやネルソン・マンデラらの談話を引用するという形で自由や民主主義についてのメッセージが投げかけられる「セーフフロムハーム」では、雨の中大はしゃぎしていたカップルが楽曲が進むにつれてだんだん静かになり、最後にはふたりで手を取り合ってじっとスクリーンを見つめるようになっていた光景が印象的であった。また、「イナーシアクリープス」では、3万匹のミツバチが消えたニュースや捕鯨問題をはじめ、一般のマスコミでは大きく取り上げられないようなメッセージ、国内の政治や芸能といったトピックスが次々にスクリーンでとりあげられ、モッシュピットにいる熱心な観客の中からも「キツイな」「メッセージ性強すぎて、ヤバイ…」といったひとりごとが聞かれるほどであった。
マッシブアタックの楽曲に触れて感じるのは、ただ騒いで発散したり感動して涙するだけではなく、魂の深い部分まで降りていってじっくりと考える契機としても音楽は大きな力を持っているということである。その意味で、今回のステージもまた大成功であったといえるだろう。しかし、自由や民主主義、あるいは大手マスコミが取り上げないようなディープなニュースといったモチーフは911を経てリーマンショックを経験した現在の私たちには若干古くさく感じられるのも事実であろう。
今進行している、現在の私たちに、7年ぶりに現れたマッシブアタックはどのようなメッセージを投げかけるのか。その姿勢は、アンコール最後の曲に選ばれた『ヘリゴランド』10曲目の「アトラスエアー」とそのビジュアルにあらわれていたように感じられる。ステージには線画で自転する地球が映し出され、国境を越えて飛行機が飛んでいく様子が航空路線の形で描写されていく。続いて表示される、たくさんの国旗。そしてそれと同列に表示される「ジョンソンアンドジョンソン」や「マクドナルド」「アップルコンピュータ」といった多国籍企業のロゴーマーク。それは私たちの住む社会は市場経済を中心に回っていることを改めて示すものにも見え、私たちは個人の力ではあらがうことができない「何かに」支配されているのではないか?という問いをフジロックという非日常に浮かれている私たちに突きつけているようにも感じられた。
デーモン・アルバーンの登場こそかなわなかったものの、フジロックフェスティバル2010の大トリとして大きなインパクトを残したマッシブアタック。ステージ終了後「雨の中ありがとう」との言葉を投げかけたロバート・デル・ナジャとメンバー全員の笑顔が、そのステージの成果を証明していたといえるだろう。
写真:前田博史
文:永田夏来